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キェ―――
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信じるも何も、消化はすでに始まってるんだぜ。
積まれたタイヤの上で夢中になってたんだ。
急行は止まらない。
急行は滅多に止まらない。
覚悟の遂行は非常に穏やかなもので、
黒く澄み渡った地下湖(ちかみずうみ)から、
液体を1滴も漏らさずに1杯ずつ外に汲み上げるような作業である。
一方、数学では、答えっていうのは大体シンプルで綺麗な形をしているものだ。
一方、斜面が汚くとも、取りあえず着地しなければ全く話にならない。
理不尽の呪文は、唱えた瞬間に理尽と化す。
最善の心を尽くし、来る時を待つがよろし。




言いたいことはいくらでもある筈、なんていうのは傲慢、思い込み、過大妄想、介錯してやろうか???オラオラ 数週間のうちに、"SMAP性"の種子を自分の脳髄に完全に植え付ける作業を完了させたいです。SMAP、有名じゃない曲を聴くと、ものすげえイライラしてくる。あまり自信が無いから公には主張しないのだけれど、ここだけの話、自分の最大の長所は"人の長所の吸収力および統合"だと思ってるんです。最近、POPとは何なのかということをよく考える。目にする表現活動のほとんどは、大局的に見ると、独りよがりで自己とその周りで完結してしまっている内容・形式が多く、その程度がどれだけ高くとも「大局的に見ると」ゴミみたいなものが多い印象がある。翻って、"程度の高い私"は、それとは対極的なAKB48やEXILEなどという概念が「大局的に見ると」ポピュラリティを獲得している(ように見える(しかしながら、その本質は問題ではなく、あくまで"見えている"ことが重要))という点において、少なからず憤りを覚えているという現状がある。そのため、私は大衆性=ポピュラリティ=POPなどというものの実態を学び、把握しておく必要がある。近年、"Perfume"の"コンピューター・ドライビング"という楽曲における「見えるモノが全て 真実だけじゃない」という詞がよく思い出される。矛盾しているようであるが、この言葉は完全に真実であると考えられる。なぜなら、"見えるモノ"が全て真実であるという大それた命題は、反例を挙げるとキリがないからである。しかしながら、同時に、大人である我々にとっては、"見えるモノ"が全てであり、全てを司る真実であるからである。殺すぞ。私が言いたいことは至ってシンプルであり、大衆性であるところの、ポピュラリティであるところの、"POP"を表現に対して最大限に反映させることが切に求められており、その前提として"程度の低い"表現を必要以上に観察・吟味し、そんなものは無意識のうちに身に纏うことができるようにならなければならない、ということである。私は、普通の人間のような澄ましたお顔をしていながら、沸騰した炎気の臓物を全方位に放射してやろうと今も思っています。将来の夢は心のテロリスト?あんた、バカ?自らの過去にいつまで縛られてるつもり?そうやって、心が自然に落ち着くほう、落ち着くほうへ流されるままに生きる生き方って言うのが、楽な生き方って言うのよ!!!生き物は、なんて猥雑な存在なんだ。人間、信じられるのは自分しかいないじゃないか。この人はこれこれこういう点においては信用できる、あの人は何々何々何々...なんてやってられないでしょう?終わってる!世界が終わってるよ!!!




ここは、開かれているようで閉じきった宇宙
そして、閉じているようで開けっぴろげの宇宙

過去を清算し、未来を睨め。
選択肢というものが存在している時点で甘えなんですか?
今日は、自分の過去をブチ殺す為に、高校の時に仲の良かった人達を、
自分発信で集め、吉祥寺で楽しく飲みました。
少しずつ少しずつ、1つ1つ、過去を、糸引く因果を、ブチ殺していきましょう。

ビックリ!自分は宇宙の中心では無い。
小さな宇宙で小さな暮らし?
それとも、小さな暮らしで小さな宇宙?
自分のクリティカルな部分を知られたくないという気持ちは何処から来るのだろうな。
強さとは、正しさへ自動的に向かうことのできる仕組みの把持ではないか。
経験の反復は、価値を創造するぞい。
小さなこころを守っていこう。

芸術作品・人との関わり・身を置く環境、など何でもそうだと思うんだけど、
できるだけ網羅的な手広さかつブレない集中力という両極をバランスよく保ちながら、
自分に与える客体の選択・咀嚼・統合を図ること。
その過程で、自ずと答えみたいなものは出てくるはず。
答えみたいなものは、雪のように降り積もってくるのが常であるけれども、
その様を見ているだけで困憊、というか満足してしまうのが常であった。
それは非常に惜しく、表現として放出することが、自分のためにも切に求められるわけである。
そもそも、人生っていうのがオマージュ作品なわけだから。

1人でいることに付随するつらさよりも、
信じていた人間に裏切られるつらさの方が圧倒的につらいのは自明である一方で、
自分の世界に他人というものが存在するその土俵に立つことすらできておらず、
自分は尚も1人で、いつまでも同じ地平で、
無様にももがき続けているのを見ているのが本当につらすぎる。
他人の世界に自分が存在していない、の方が正しいかもしれない。
イグアナの群れ「ふむ、内向きな傲慢、原因はここにあるわけだな…」

問題は、宇宙(分母)がどれだけ広いか(大きいか)であって、
苦悩(分子)の量は関係ないのではないか?
なにを?そんなに?こだわって?いるの?
僕だって、好きで孤独ごっこやってるわけではないんだけれど。
早く家に帰って泣きたい。

一方、"大人"、"我"が足りてないのでは?と思うことが多い。
それは、シメたものだ。
ひどく傷つきながらも、確実に前に進んでいることを実感できるような人生がいいじゃないですか?



ここは、君との関わりの中心
ここは、特異点 無限に発散する分母
人は、捧げてきた時間という地平にまで到着したとき、愛を語ることができるのではないか。

イマをイマとして自己認識する力
これからは、中心から遠くに離れていくだろう。
ここまできて、尚、自然に寄り縋っている。
それではダメだ。意志が必要なのである。
多少であれ、真(まこと)の意志があれば十分である。
蓋然とした偶然を取得するための意図もあろうが。

もはやこの場所に理由はなく、悠久な時間の抜け殻がそれなりの体積を有している。
ただそれだけのことになってしまった。
材料がそろった予感、みたいのがないよな気がする、何が足りないんだろね。




身の回りにあるもので1番丸いものってなんだろうと考えたら、人間の瞳だろうと思ったりして。

私は、抽象的な表現ばかりを用いることが多くて、世界の具体的な叙述による、間接的な意味の表現みたいなものが、意識してみたところでほとんどできないことに気づいた。そう思いながら生活していると、体が感じた世界の現象から何かに気づこうと働きかけていくような、やや新しい内容が持ち込まれつつある。日常を消費しては葬り顧みることなく、ちょっとした違和感は押し殺して無視しながら、前の方を向いて生きるのは、とても人生っぽいし、やりやすくって、この数ヶ月はそのやりやすさに甘んじていた。そうして、大切と言うには自信がないけれど、重大であったに違いない記憶が、ズブズブと地面に埋没していく様子を背中に感じながら歩いていくのは、どう考えても哀しい。日常を振り返るような類の文章では、切り口はどうであれ、この辺から逆説で繋いできて、少し立ち止まるよう周りの人々に説くのがセオリーであると思う。でも今の僕は、もう少しこのまま前の方を向いてやっていきたい。完全に勘だし、理由は知らない。前を向いてるから。まあこんなことを言っている時点で矛盾が生まれている訳で、割と、最近の座右の銘は「ジェットコースターのような毎日を」にすべきだな。日常のスピード、疾走感について行くのに精一杯で、我を出していく隙も余裕も無い毎日を。たぶんそのくらいでちょうどバランスが取れると思う。

「あなたのこと、あなたの周りの人よりも良く知ってる」とネット上で片思いしている対象が何人かいる。そのうちの1人の人に関しては、先日ブログの記事で述べた。もう1人の人に関して、今、少し述べたくなった。テキストサイト時代からホームページを何回も読み直し、文体もモロに影響を受けるくらいファンだった2周りくらい年上の女性だ(今も尚その脈流の中にいると思う)。その人は、更新がツイッター中心になり、自分がツイッターを始めるときにドキドキしながらフォローしたら、フォローバックをしてくれて嬉しかったが、しばらくしてリムーブされたのが、いまだにつらい思い出となっている。その女性は、一言で言うと、多くの点において"ニッチ"な人というイメージがある。詳細は割愛するけど、嗜好の偏向を良しとする土壌が形成された。最近考えているのは、インターネットにおける、ある対象への一方的な知見の深化の可能性に関してである。ネット上では、ある対象を好きになればなるほど、きっかけからの自然な流れで、かつ、ローリスクで、ストーカーに近い行為を行うに足る環境が用意されているということ。私は、中高生時代、ネットにおいて、他人からの影響を受けたり学ぶことが多かった。その過程では、こちらから働きかけることはなく(所謂ROM専)、他人からの否定というフィードバックが帰ってくることがなかったために、他人からの情報で一方通行である状態も、コミュニケーションの形式として正当性を纏っていた様に思える。そうして、インターネットを介して、世界に存在している人間とのコミュニケーションの歪な方法を多感な学生時代に大いに享受してきたことにより、私の人生を回す歯車が狂った感じがある。一方通行性と言うと、本やマンガやテレビなんてものもあるから実は何とも言えないし、所々日本語がおかしいが直すことはしない。ただ、その質やリアリティとか密着性みたいな点において、近い風で錯覚しやすいのではないかな。こういった性質は、現在にまで完全に糸を引いており、あらゆるレベルにおいて、自分が思ってること・考えていることは言うまでもなく世界と共有されているのが当然であると思い込んでいることが多いのに気づいたのはここ数年だ。また、それらをいざ伝えようと思っても、うまく伝えられないことが多くて、とてもつらい。まあつまり、「だって分かんないよ!アスカは何も言ってくれないんだもの!」ということなのだろうので、分かってほしい人に、分かってほしいことは、ちゃんと話そう。

また、私が人前であまり話さないのは、何か自分の意見を話すと、他人は「何言ってんだコイツ」という反応をすることが多くて、嫌になるし、適切な話題と表現を選び続けることもできなくて、黙っているのが1番になるということが理由の1つだ。それだけではないかな。私自身は人と話すことは好きなんですけど。その辺はたぶん誰にも理解してもらってない。あと、誰かにめがけて単語や記号を羅列してぶつけて、そのリアクションを受けることだけでは、何かを知ることはできないと考えているから、会話を想定することのない、自己完結した形で思いを巡らせていることも多い。記号としての今野杏南じゃないんだよ、別に俺はお前らと感動を共有したくはないんだ、わかる? しかしながら、対話という形式で瞬発的に生み出すことのできない思いは完全であるか...?

僕は、何遍も読んだ漫画を、今日も飽きもせずに読み返すような人間だけど、
君は、禄に台詞も覚えることなく、新しい漫画を、内容を、求めるような人間だ。
どっちがいいかなんてことは分からないけれど、君とはウマが合わないことを予感させるよね。





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