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キェ―――
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堀北真希がどうのというより、
憧れのあの人も自分の知らない姿があるという当然が、
無慈悲にも生々しく暴かれる瞬間が思い出されてつらい
まあ、とりあえず、君の話を聞こうか?

8/13
 何について述べるか。考えるべき事項が多すぎて、どれも手つかずになっているのが現状である。徹底しなければ気が済まないという性格の両面性に関しては、考える価値がありそう。いかに、現在につないでいくか?こうして、改めて自分を眺める作業が重要なのである。
 と、いうことで、どうしよう。意外と、というか、当然、完成された言葉というものは、一発目から出てくるはずもなく、言葉を磨くことが必要なのだよな...。この辺に関する意識が私の弱みで、徹底を目指し過ぎた挙句の、失敗の知悉を許さない性格の仇である訳である。成功体験しか観たくない。もっとも、言葉を紡ぐことに関しては、"環境"に身を置くことによって、気持ちよく進めていくことができそうだ。環境に身を置くこと、これはこれからの習慣にする。こうして、いちいち言葉に顕さなければ自分の習慣・行為に自信を持つことができないというのは嫌だけど、仕様がない部分がある。文字を、バーっと書き出す作業っていうのは好きなんだよね。失敗、或いは、一発の完成を目指さないということが大切なのである。白銀のアイデンティティ。思考が枯れるという経験は無いからね。それが僕の唯一の強み。
 最近、けっこう良く考えているんだけど、俺が抱いている愛・恋の理想みたいなものって、周りのそれとはズレているような気がしている。頭は何も考えちゃいないのに。理想はどこからやってきた?"愛"は圧倒的な真である訳だから、とても怖い感じがある。今はね。一言でまとめてあらわそう、なんていう考え方が傲慢。幾つもの言葉で、それでいて無意味ではなく、幾分かのまとまりがあるような表現。でもそれって、どうしても自分がその中に存在していないような気持ちが強くって。
 まあ、俺が今、現時点で何を主張したいか、ということなんだよな。眼から仕組みが入ってくる。頭では何も考えちゃいないのに。最近、考えていることとしては、愛ってもっと、崇高で尊いものであるはずなんじゃないの、そうであって欲しい、っていう希望がある。でも、そんなものではなくって、もっとありふれたものであるような気もしている。俺が求めているものってなんだ?互いがどうしようもなく互いを必要としている、二人の人間の間の必然? それって陳腐だよな...。まあ、陳腐であっても、それが自身の真実であるならば、自分なりの言葉の表現というものがあるはず。なぜなら、心の底からの心酔、私の心を完全に満たす表現というものがこの世に存在していないのだから。それは自身が作りうる新しさの存在証明である。憚ってはいけない。
 結局、他人は自分ではないのだから。自分とは異なるのだから。戸川純の”ラヴ・クローン”、自分自身しか愛することができない細胞分子体?自分自身を大事にすることの延長としての"愛"か?自己嫌悪という言葉もあるけど...。また、それはそれで詰まらなそうだな。

8/14
 IROIROな愛・恋の形があるのを見聞している。その中で自分がどうギャップを感じているか、ということなんだろうけど。彼女が求めていたのは、J-POP的・ドラマ的な恋愛であるだろう。私自身もそうであることは間違いないのだろう...。
 でも、私自身の実際は、他人との距離の詰め方が分からない?矛盾しているようだが、他人の中に他人が宿っていることに僕は我慢がならないのかも知れない。僕の期待の中にあなたは収まっていてくれ、という、淡い期待が。自分が自分自身に関して認識をしていない間に、他人に対する妄想を広げ、他人の世界観を構築していて、それらが否定されるという現実に我慢がならないのか。他人が分からない、未知なる"世界"に関して、理解を超えているという現実が恐ろしいのか。それらに対して、他人・世界を決めつけ、無意識的に何らかの像を形成することにより、自らを落ち着かせようとしているとしたら?
 でも、それって、詰まんないじゃん。自分とは異なるものに触れることにより、人生は楽しく満たされたものとなるんじゃん。と、彼女は言うだろう。それは正論である。でも俺は、"何事も型にはめ込むこと"にこそ、楽しみを見い出している実感がある。そしたら、詰まらない人間だよな、そしたら...。世界との関わりの中で自分なりの法則を見い出し、それが裏付けられていくのを見守るのが楽しい?それはある。
 でも、新しいもの・ことに触れるのもそれなりに好きなんだけどな...。自分の実存が脅かされない限りにおいて。しかしながら、俺の場合、その閾値がもの凄く低く設定されているのが問題であるのかも知れない。問題、という単語を充てるのは正しくなく、マイナスの側面が目立っているけれど、プラスの側面だって当然あるはず。慶應など、私の他の周りにいる奴等は、簡単に脅かされるような過去を有していないから、自己同一性の高い閾値を持っているから、何とも感ずることない生活を可能とするから、私だけが鋭敏に問題と感じでしまっている?人々の自由な恋愛っていうのは、僕にとっての脅かされる関係って感じだよな。自身が脅かされるスリルみたいなもの、その上において互いを重ねていくことの快感、その結果としての一回り大きくなる一個、というのが、僕なりに漠然と感じている恋愛像である。それを行うには私自身に自信が無さ過ぎるというのが、根本に位置する世間とのギャップであると思っている。積み上げてきたものが無いという風に、自分の意志を、必要以上に否定しがちである。
 でも、それは、自意識過剰の一言で片付けられる性質ではあるけれども、過去を乗り越えてやっていくためには、自信が必要だ。まず、前提として、それらの"自信体験"には、他人・第3者の関与が不可欠である。どんなに理想的な状況を仮定しても、世界との関与なしの自信というものは有り得ないから、世界との比較および世界の承認によって、初めて自分の努力みたいなものが自信として昇華されるから。と、すると、世界を異様に恐れている私は、心の閉塞を願いがちであり、自信に確証を与えるそもそもの母数が少なくなる。そのため、自身の中のみで完結してしまった努力というものが、どれだけ無に帰し、腐っていってしまったことか。それらの死肢を掘り起こし、白日の下で成仏させてあげる必要がある。とりあえず、これからは、内向きの努力は外部との交わりとセット。それらの消化不良はマイナス、自己喪失の方向に働くから。
 でも、また、数少ない他人との関係性の中から生まれる"自信体験"というものも、素直に享受していれば良いものを、黒で塗り潰しがちである。それらの悪循環の結果として、現在が誕生している訳であろう。今更こんなことを言っても仕様がないが、その発端となったのが、中学時代の一件、高校時代の一件ではないでしょうか。仕様が無いといえば仕様が無いんだけれども、世界が憎すぎる。あと、こういう思考回路を持つに至った根本として、両親の性格があると思う。
 ゆえに、これから必要なのは、世界との関わりを通した自信体験の蓄積および変換であろう。

8/16
 日常の一部を切り取ってきて、それを愛と結びつけてみた、みたいな。こういう時に、こういう場所で、こういう風ことがあるのが"愛"だよ、という共感を呼ぶようなものだよね。まあ、結局は、俺の中にある愛の印象みたいなものを持ってくればいいというわけでしょうね...。一言、今回はコレが言いたい!という軸を見つけてくることだよな...。
 1.愛はもっと崇高で、インスタントな手軽ではないのではないか? 2.好きってなんだ?信じていいの?それに縛り付けられるのもどうなの? 3.大切なものは失って初めて気がつくもの、日常の中のささやかな幸福はもっと大切にして、続いていくように努力をしなきゃダメだよ、努力をしていかなきゃ、という戒め 4.どうしたって手に入らないもの、高嶺の花にしか興味は無いという最悪の宣言 5.異性のグッとくる例の紹介(自己同一性の崩壊と表裏) 6.エロ・性欲の棲み分け・自身の意識における整理のされ方 7.「根岸は誰かを好きになったことがあるの?(笑)」に対する答え・反論 8.今まで片思いをしてきた人々に対する気持ち 9.愛は自分の過去から形成されるものではないか? 10.俺のラブソングを消費するな!という憤り

8/17
 今回に限らずそうだ。一発でなにかを作り上げよう、なんてのは傲慢である。試行の錯誤が重要で、それが足りていなかった。ミサトさんは、「時々自分に失望するわ!」と嘆いていたけれど、それに近い(遠い?)ものがあると思う。自己の補強として他人を求めているということ、自身の説明、自己同一性の維持
 これらの言葉は軽すぎて、本心が滲み出ていない見せ掛けの言葉、象徴にすがった言葉である。
 ここで、自分の過去について考えて見るといいかも、何だろ、相手の中に自分と同じ経験を求めている?憚られる言い方をすると、処女性、というものは絶対に求めてしまっているように思える。特別、自分が守ってきたわけはないけど、抑圧してきた、発散することができないでいたけど、相手には守ってきたものを求めている? やはりこの辺は自分を語る上で切り離せないように思える(コンプレックスでしかないが)。まあ、これはまた別にじっくり考えるべきテーマではあると思う。 話を戻すと、相手の中に、自分を求めている? しかしながら、もっとなにか特別な、包括する上位概念・動機がある予感がある。
 分かり合いたいから? 共有したいから? つらいから? つらいと感じている中で生活を推進していく力が無いから? 少ない力で楽をすることができそうだから? 群がれば楽なのに群がらないのって、相当、無駄な努力だよねって感じがある。やっぱり原因がどうであれ、自分というものが大きく・広く・強くなれたらうれしいものなんだろうな。うれしいというのは少しズレていて、欲している・欲求がある気がする。一般性はあるか? 過酷な現在を反転する可能性への引力、という意味の欲求。そんな風に、自分の中の執着している部分に関して、埋め合わせをすることを人々は常に考え、常に行動に移していると思うんです。
 例えば、TVを見たり漫画を読んだりして一時的に忘れて有耶無耶にしたり、勉強や仕事に打ち込んだり本や映画を見たりして自分を広げることで足りない自信を回復しようとしたり(無いなら作ればいいじゃないか、という発想、俺は常にこれだけを志向してきてしまった気がする...)、そもそも執着をしないように努力して考え方・自分を変えようとする、など。そして、他にもいろいろとあるんじゃないかとは思うんだけど、自分の能力は変わらず自分の考え方が変わるでもないが、自分を計る"ものさし"である世界・環境を、自分の都合の良いものにする、という方向もあると思うんです。今までとは異なる"鏡"を設置することで、観測する反射光を自分の都合の良いものに、結果として満たされるようにする、という方向。と言うと、上から目線の感があるけれども、どんな人間と付き合っていくかという話に、その影響力の際たる形が恋人、という風に言えると思う。友達に恵まれていたら恋人は要らない? 今までの人生段階においてはそうだろう。俺は友達もいなかったけど。これからは絶対違ってくるんだろうな、という確かな予感がある。

8/19
 ここまで書いてて思ったけど、自分が相手になにかをして欲しい、という受け手の意見でしかなく、非常に勝手な議論であった。つまり、上記の欲求をすべて満たしてくれるならば、誰でもいいのか、という話になる。しかしながら、まあ、これは妄想の域を出ないのだけれど、相手側にも自分が必要とされていないと自らの欲求が充足されることは無いのではないか、相手にとってどうあるべきでどうあるべきであるかを求められているかという視点も必要なのではないかと思った。
 先ほどから、度々、"シェリー"の内容について考えさせられる。"シェリー"に感じる違和感というものは、男のみの視点で誠 自分勝手であり、また、「支えてもらう」というという感情は相手を支えている実感を含めて生じるものであると考えられるので、この男は少し狂っているのでは、と思う。例えば、俺の支えを必要とせず一人でガシガシと前に突き進んでいくだろう人間は、もし自分を強く支えてくれていたとしても、自分が相手のためになっていないだろうな、という思いが軋轢を、違和感を生むに違いないだろうということである。また、住む世界が違うというと傲慢か、過去が違いすぎると現在・目指す地点・欠乏している部分・自信の無い部分も異なるから、なんていうと全員十人十色で異なるのでは?という思いが生まれるが、”必然”ではなくなると思った。ここで思い出されるのは、以前に述べた、互いがどうしようもなく互いを必要としている故の必然、この言葉には相手側の視点も入っているので、"シェリー"よりはピンとくるのではないでしょうか。
 でも、そんなのって、わからないんだよな...。だって、経験が無いから。推定でしかないから。かなり面倒くさい男だけど、相手には、「お前は僕を必要としてくれ!」という要求をするということ...? それは傲慢の雰囲気、「僕はありのままの僕だけれど、君は僕に都合よく僕を必要としてくれ」と要求しているわけであるから。そうなると、当然、自分がしなやかに変形していく可能性を相手に要求しているということか。??? は??? 同時に”君”も変形することを求めている? いやいや、「君はそのままでいいよ」。??? 具体的ななにか特別なものを求めているのではなく、唯、自分と同じ考えを有していることを求めている??? そんなことをいうと、自分自身しか残らなそうだ。あなたは結局、何を求めているの???
 僕は、不安を埋め立て、自信を付与し、目指す先のほうへ進めてくれる推進力が欲しい。それだけ? 言うなれば、自己成長のための手段としてしか他人を必要としていないの? うーん、人生にはその都度、目標が設定されるものではないでしょうか。というと少し固い印象があるけれど、目標・未来・将来・これから・夢・というものは誰しも考えているのではないでしょうか。

8/22
 下北のマクドナルド2F、ストローを噛みながら氷の中に液体を求め、人ゴミを見下ろしながらの夕刻にて。カドの先にある窓際の席が好きなんだよな。で、話を戻すと、あなたは他人に何を求めているの?という点であったか。ループした話題は自分でももうウンザリ、「待ち合わせ」という概念が好きだ。こうして眺めていると、人間の交差点、という言葉がよく当てはまるように思え、人が待ち合わせをしているのを見るとなんだか羨ましい気持ちになる。
 何でも述べるというコンセプトなのに、一日に一つはなにか意味のあるアウトプットをしなければ、という強迫観念を抱いているのに気づき、何も書き出せずにいる。その必要は無いのだよ、take it easy に。でも、こういうことが多い、俺って。何でも、人付き合いでも、趣味的なことにしても、それってあんまり良くないよな。あんまり、というかかなり。あなたは、必要以上に、失敗をすることに怯えている...?
 他の人間はどうだ? 考えてみると、全体的な印象として、新しい物事に手を出すということをしなくなってきている。楽な方、楽な方へ向かっている、そしてそのことに気づきまいとしている...? そう言われると、心当たりがある部分が多い。逆に、こういった状況において怯えずに未知を切り開いていく人間の精神はどうなっている...? この辺りが、自分の自信の無い部分と強く関連している予感がある。頭をよぎるのは、中高生時代のトラウマ、今も糸引く体験である。それ自体は事実であるから動かすことはできないのだけれど、それに対する現在の自分の解釈というものは無限に変容しうると思うんだ。エヴァンゲリオンを彷彿させる話題ではある。ミサトさん曰く、「そう思い込んでるだけしょ?」「これは、こう!と決め付けているのはあなた自身の心であるから、あなた次第で如何ようにも変化しうるものなのよ」と。
 でも、思い込みによって、天と地を創造しないと僕は不安で仕様が無いんだ。今、2つの問題が混在している気がする。1.過去の出来事および経験に対する解釈の見直しの必要性 2.一般的に、「そう思い込んでいるだけ」の状態は好ましくないけれども、そうでもしないと不安で仕様が無いというジレンマを解決してくれる存在としての他者。 1.に間して、今は自分の過去を完全に疑いにかかっている状態で、それはそれで悪くはないんだけど、どうしても自分に自信がなく、頼りない人間になってしまっている。それは、他人も感じている所でしょうし、自分でも嫌だな、と思っている部分である。結局、自分の信念・自信というものは、他人という鏡を何らかの形で経由しなければ得られないものである。そのため、これからは、自己の修練を続けていくと同時に、必要以上に積極的に他人と関わっていく必要がある。その中で、僕を"正しく"反射し、反射を繰り返して光が消えてしまわないような関係を築いていきたい。




ここは狭すぎる
生きる才能が無い
もう活動限界が訪れつつある



瞬間を切り出せば楽しかった出来事は、
その中で少しでもショックであった部分ばかりを反芻してしまうので、
楽しかった出来事も、時が経つにつれて暗黒色に染まる。
なんらかの手段によって"瞬間におけるプラスの感情"を保管しておき、
必要に応じて引き出す必要があるわけで、
それが"写真の形"を取る事が多いわけか?
人生をしている我々は、常に言い訳を、予防線を、張り巡らそう。

・・・

- 分かりきっているじゃない?
現在の点検が完全に徹底されていった先には、
未来、つまり現在が存在しない漠然とした"次"があるだけしょう?
徹底された"次"に現在は存在し得ないのではないのですか?

- んん、でも、旧来から議論されている徹底のボーダーの引き方が問題です。
それとも、あなたは現在の点検は全く必要がないと主張しているのでしょうか。



- 輝かしい瞬間瞬間をペンキで塗り替えているのはあなた自身ではないですか?
そのままにしておけばいいのに。
勝手なことしておいて、被害者意識で私たちを憎んでいるんでしょう。
はっきり言って、迷惑です。

- でもでも、現在を形成するのは現在であるというのは恐らくあなたも認める所で、
現在というものを良くするためには、
過去の総和としての現在を絶えず点検しておく必要があると思っているんです。



- お前、不幸ぶるのやめろよ。
お前は、傍から、私から見たら十分な幸せモノだからな。
自分の中の不幸をわざわざ掘り起こそうとするなよ。
おとなしく幸せを掘り起こし、認めろよ。

- 成る程、それも承知しております。
しかしながら、そうでもしないとこれまでの感情が報われないような気がしていて、
それはとても悔しいことだと思うんです。
そもそも、私は、そんなに悪いことしてますか?

嗚呼、美味しい食べ物をたくさん食べれば万事が解決するような気がしている。



完全に失恋をした。最近身の上に起こっていること、動揺していること、振り回されていることが、悉く前々から分かっていたことであるのが、理性を売りにしている私にしてはもう遣り切れず、故に行き場のない殺意が順調に育っている。一番好きなフレーズは何ですか?と問われたら、「初めての呼吸で 好きだと言えたなら いいのに(THE BACK HORN - 初めての呼吸で)」と答える。毎晩毎朝泣いている、奇しくも感情が在るのは救いか絶望か。固有名詞で"詩人"を騙る詩人は糞。ちゃんと生きてれば言葉なんていくらでも紡ぎだせるものだろう?"当然の認識の違い"というものが現実に暴かれた形、その当然さを知覚していたという点で、体内がどんどんどんどんグロテスクになっていく実感がある。カブトムシとかクワガタムシとか、黒くて頑丈そうな骨格持ってますけど、中身は唯の白いドロドロが詰まっているだけなのに生体として個体を維持しているんですよ。翻って、私も甲虫類のスケールが大きくなっただけ、内面は物凄いグロテスクですから。悲しすぎる、世界が憎すぎる。

早朝からものを考えながらベッドの上で丸くなっている私の心の隙間に雨音がしとしとと浸み入る。大学院生にもなってペアレンツ・コンプレックスを抱えている。この世界で一番感謝してるのは絶対に両親だし、この世界で一番憎んでいるのはと問われるとその根源は絶対に両親である。「マジメ」に生きようとするというのは碌でもない。その”マジメ”とやらだって両の手で届く程度の狭い世界観における尤もらしさでしかないのだから。だから前々前々から思っていたコンテンツであるところの不良少年になろうと思っています。どうせ無理だろうけど。

女は、少しいい格好すれば完全に誘われるがままにポコポコとデートするだけの癖に奥手で女慣れしていない男を完全に下に見るから糞、それでいて浅い男の浅い部分が暴かれるだけの当然の帰結に不幸ぶるから糞、それでいて男に浅い男が持つ甲斐性みたいなものを求めるから糞アンド糞アンド糞、死でしかない。自分、いい思いをしていない気になっているだけなのだろうな、たぶん客観的に見ると本当は凄いいい思いをしているんだと思う。だったらこの気持ちはなんなの?細い方細い方へ向かっていくのは嫌だ...周りの人間に「可哀想な人...」って思われるはもっと嫌だ。自分が「可哀想な人」と思われるのが一番嫌なのって、普段、周りの人の色々な部分を取り出しては「可哀想な人」という形で断罪して、心の底ではかなり根深い所で軽蔑していた裏返しで、鏡に映った自らの評価基準に怯えていたのでは、という気持ちが強くなっていて、つらくなっている。即ち、自分が他人に心から優しくすることが、自分が他人に心から優しくしてもらっていると感じるための前提条件であるということ。しかしながら、この2尾のウロボロスの蛇の間に入り込む余地が既になさそうな雰囲気なのだが...。ハッ、声が聞こえる。自分は不幸であり、何をしても楽しくないと思い込んでいるだけでしょ?だったら、もしかしたら自分は不幸ではないかもしれない、もっと楽しいことは沢山あるかもしれない、と思うようにするだけで日常の中に幸せが見つかり、自分も変わるものでしょ?こういう聞き飽きて余る言説が、理解という形でスッと頭に入ってくることがあって、そういうブレイクスルーを繰り返して生きたい。でも他人に悪意向けないのどう考えても無理だな。NHK教育見るところからやり直した方が良いかもしれない。この様に、今後もdopeなurban lifeを展開して生きたい。



数少ない友人にコンピテンシーレベルなる概念の手解きを受け、一面的に開眼した。"人生の才能がある人間"は、考えたこともないだろうが、青春時代に社会の中における自分の役割を与えられてきて自然なものとして享受しつつ、たまたま、これまでの社会と自分との関わり方を当然なものとして表現することができている人間というのは存在するのだな。私は人生に適応がない。自分の成長くらいにしか興味がないから。詰まる所、自らの向上の為にパワーバランスを振っていた一匹狼には、死を。まあ、言説として顕す事で心の地図が書き変わりそうだな、思わぬ所で。人生において求められている社会性は、ミサトさんの言うところの「そう思い込んでるだけでしょ?」であり、"考えよう"によっては取り込むに容易い性質か。ただ1つ言えること、あなたが人間である限り"あなたにとって新しい"人間との関わりを常に持とうとし、常に向き合おうとすること、そしてあなたとの距離を測ろうと、常に、積極的に、意識して、行うに努めること、によりあなたという個体は良い方向に運ばれていくでしょう。

なんで、この私がこんなに翻弄されなければいけないんだ。心の重心が片寄っている。時空間的に。解決としては、心の重心の片寄りをどうにか検出して解消し、時間的に蓄積する負荷を軽減する事が第1でしょう。解消とは、重力を分散させること。なんらかの、別の没頭を行うような状況に移動することができればいいでしょう。だから僕は、悲しいとき、見知らぬ人に話し掛けることが最近ある。

私は、基本的に人の芸術を評価しないからな。また、どういった過程を経てそうなったのかが分からないのだが、昔から憧れていた"芸術家"という像に対して、唯、"ダサすぎる...。"と思ってしまう気持ちを無視できなくなっている現状がある。悲しくなる。あのな、芸術家は一般的人間から感性がずれている事にいい加減気づけ、その上で、自らの我をどうにかして擦り合わせていけ、受け手あっての"構造"なのだからな。対象者を狭い狭い一部に絞り込むのは全く構わないが、その後、"対象の限定に伴う不幸"を絶対に嘆いてはいけない。嗚呼、眼球に二本のブーメランが突き刺さっていて前方が見えない。不完全な新しいものを生み出す事よりも、新しいものをいち早く盗んで自分が生み出したかのようにする生き方が良いことが多いようだ。

子(師)曰く、人生はキャンパスであり、五線紙であり、時を演じる舞台である、と。特に、(狂気にも似た没頭という形で長期にわたって消費した)時を演じることが大切でしょう。



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