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キェ―――
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数少ない友人にコンピテンシーレベルなる概念の手解きを受け、一面的に開眼した。"人生の才能がある人間"は、考えたこともないだろうが、青春時代に社会の中における自分の役割を与えられてきて自然なものとして享受しつつ、たまたま、これまでの社会と自分との関わり方を当然なものとして表現することができている人間というのは存在するのだな。私は人生に適応がない。自分の成長くらいにしか興味がないから。詰まる所、自らの向上の為にパワーバランスを振っていた一匹狼には、死を。まあ、言説として顕す事で心の地図が書き変わりそうだな、思わぬ所で。人生において求められている社会性は、ミサトさんの言うところの「そう思い込んでるだけでしょ?」であり、"考えよう"によっては取り込むに容易い性質か。ただ1つ言えること、あなたが人間である限り"あなたにとって新しい"人間との関わりを常に持とうとし、常に向き合おうとすること、そしてあなたとの距離を測ろうと、常に、積極的に、意識して、行うに努めること、によりあなたという個体は良い方向に運ばれていくでしょう。

なんで、この私がこんなに翻弄されなければいけないんだ。心の重心が片寄っている。時空間的に。解決としては、心の重心の片寄りをどうにか検出して解消し、時間的に蓄積する負荷を軽減する事が第1でしょう。解消とは、重力を分散させること。なんらかの、別の没頭を行うような状況に移動することができればいいでしょう。だから僕は、悲しいとき、見知らぬ人に話し掛けることが最近ある。

私は、基本的に人の芸術を評価しないからな。また、どういった過程を経てそうなったのかが分からないのだが、昔から憧れていた"芸術家"という像に対して、唯、"ダサすぎる...。"と思ってしまう気持ちを無視できなくなっている現状がある。悲しくなる。あのな、芸術家は一般的人間から感性がずれている事にいい加減気づけ、その上で、自らの我をどうにかして擦り合わせていけ、受け手あっての"構造"なのだからな。対象者を狭い狭い一部に絞り込むのは全く構わないが、その後、"対象の限定に伴う不幸"を絶対に嘆いてはいけない。嗚呼、眼球に二本のブーメランが突き刺さっていて前方が見えない。不完全な新しいものを生み出す事よりも、新しいものをいち早く盗んで自分が生み出したかのようにする生き方が良いことが多いようだ。

子(師)曰く、人生はキャンパスであり、五線紙であり、時を演じる舞台である、と。特に、(狂気にも似た没頭という形で長期にわたって消費した)時を演じることが大切でしょう。



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