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【他タイトル候補】
スティージョ・ブブス
ひよこバトル
トロッコ問題

この数日、ただ漠然と息苦しく、蓄積された気状エネルギーの体積が増している実感があり、もう人ひとりの入れ物では抑えられない風なのに、言葉の毒を噴出したくならないのを不思議がっている。今は自由のはずだ、私はとっても自由のはずなんだ...。どうせ、「自由であるはずの私は、何も不自由せず、自由らしい生活を送っていなければならない」という観念が強迫しているわけだろうが、私は細かい所まで徹底していないと気が済まないことが多いため、「そもそも完璧に自由な生活なんてものはどう足掻いても達成できない」という観念も頭の片隅にあって、程度というものを知らない私は、半端な自由を獲得する努力をしようとしない傾向がある。傍目には、ループした話題かもしれません。数年前、左翼の連中が主張していることに関して、それらは至極"正論"であるだけあってどうしても無視できないで頭を悩ませているときがあった。その頃、元AKB48の篠田麻里子が写りの良い自分の写真と写りの悪い他人の写真を並べることで他人を貶めている印象のブログを見て、徹底を目指した所で現実には全てを完全に満たした徹底という状態を達成できない、という背理法的な意味でもって、徹底という概念はそれ自身が徹底でない机上であり、ゆえに、徹底を強制される必要はない(かと言って徹底を目指すこと自体は別に否定はされない)、左翼の正体も徹底ではなく所詮"先行する目的"であり、連中が主張することに常に耳を傾けている"必要"はない、と思った。と、考えたのは良かったのだが、自分の方にその刃先を向けて余分を切り落とすことはなかった。他人が掲げる徹底なんてものに注力する必要がなければ、自分が掲げてきて一応貫き通してきた徹底なんてものに注力する"必要"はなく、何なら場合によってはあっさりと殺してやる"必要"があることに気づいた。この辺りは、日常の深浅あらゆるレイヤで無自覚に下している判断であると同時に、その片寄り・バランスが"成人男性"の課題であると考えられ、斜め上から自分を見つめ、なるべく等方向にフラットでいること(および前提としての方向の自覚)、その上で意識的な徹底・執着・集中を行うことが望ましいのではないのでしょうか。まずは、重要で致命的でないような新しい事柄に次々と手を伸ばしていって、中途半端でも納得できるように、中途半端であることそれだけに追われないようにする癖をつけるのがいいかもしれない。まずは、動物と植物を育てようかな。



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