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羞恥心は自他を比較することから生じる。より正確にいえば、自他を比較し、自分は他人になれたはずなのにどうして自分のままでいなればならないのだろうと疑うとことから生まれる。流動性のある社会、あるいは誰もが「騎兵」になる可能性をあたえられている社会に生きる母の心に生じる動揺の表現である。

彼女は今、狂気の拘束のなかでかぎりなく「自由」である。その「自由」さのなかにときどきあの奪われた世界が復活する。彼が「喪失」し、「自由」になったということは、彼があらゆる役割から開放されたということである。このとき、人はそこで日常生活が営まれている社会の次元から、単に存在している もの の次元にすべり落ちる。

生きつづけるためには、人は何らかの「役割」を引き受けなければならないから。この希望も絶望もない不透明な世界のかたち

彼は充実しており、「生きている」が、それは彼がイメイジを回復しているからである。時子は死にかけているが、彼は「幸福」である。時子が死ぬので「幸福」なのではなく、「母」を自由に思い描ける自分が「幸福」なのである。われわれのなかに「母」との合体を求める原初的な衝動があり、「母」に拒まれあるいは「母」を拒んだ罪悪感が澱んでいる以上、「母」に赦されつつこれを汚すという救済が感動的なものでないことはない。

「突然の不在」ではなしに、むしろ「無限の偏在」というべき象徴

なにもかもの崩壊や不在への「恐怖」のために、人は「治者」の責任を進んでになうことがある。しかし、「治者」の、つまり「不寝番」の役割に耐えつづけるためには、彼はおそらく自分を超えたなにものかに支えられていなければならない。しかし、あるいは「父」に権威を賦与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかもしれない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、その前から実在は遠ざかり、「他者」と共有される沈黙の言葉の体系は崩壊しつくしているかも知れない。彼はいつも自分がひとりで立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯え続けなければならないのかも知れない。だが近代のもたらしたこの状態をわれわれがはっきり見定めることができ、「個人」であることを余儀なくされている自分の姿を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて「小説」というものを書かざるを得なくなるのかも知れない。

江藤 淳, "成熟と喪失 -“母”の崩壊-", 講談社 (1993).



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