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キェ―――
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先日、中学生時代の友人をネット上で見かけた。
相変わらず、変わってないな、という感想だった。
昔からアニメやゲームが好きな、オタクのテンプレートのような人で、今は同人誌の創作をしているらしい。
この感想と認識は、「変わらない、小さな世界でやっているね」という最悪な批判である。

震災以降、インターネットの海で色々な情報を集めている。
元々は視野を広げたいというモチベーションで始めたが、現在も尚、義務とも趣味とも習性とも言えない営みとして続いている。
ルーツに起因する思い込みが激しかった時分と比較すると、幾分かは自分をフラットに眺められるようになったと思う。

自分以外のものと関わる時、恐らくこの営みに関係して、
「これは価値がない/ある」「これは想定の範囲内/外」、みたいな2極のジャッジを大まかに下していることが多い。
そして「価値がある」「想定の範囲外」な人間の頭を自分の中に取り込みたいと思っている。
(この辺は、ドラゴンボールの「セル」「魔人ブウ」、ハンターハンターの「団長」の影響が色濃い)

翻って最近、「価値がない/ある」「想定の範囲内/外」 を判断する営みは、人生にマイナスに作用するのではないか、と思うようになった。
理由は2点ある。

1点目は、自分自身が細かいアウトプットを出せないことに気づいたから。
他人のアウトプットを「凡庸」と断罪して満足する呪術の裏返しで、自分がアウトプットを出す時、「凡庸」であることを異様に恐れる。
納得ができていないものが人の眼に入ることが嫌になる。
また、あらゆる仕事には試行錯誤がつきものである中で、その過程の中間状態を自分自身が眼にすることさえも嫌になってしまう。
すると、自分に対するハードルが徐々に上がり、常に渾身の作を求めるようになる。
一口目から及第点を取りにいくような作業は効率が良くないし、新しい物事に挑戦する時に消費する精神力の燃費が悪くなる。
なんか色々と本末転倒だな、と思っている。

2点目は、年齢相応でないから。
学生の頃は、学校のコミュニティや親族の干渉の中で、「こんな毎日は嫌だ」という怒りに似た感情、束縛からの解放、を志向していた。
それら、偶然とも言える勢力に対抗し、自己を保つには、外国から輸入してきた武器がどうしても必要だった。
そんな自分が、ある程度の自活力を持ち、ある程度の意思決定権を持った今、何に対して武力を行使するのか?
26歳、アラサー同然になった今、未来に何を望み、何を打ち倒したいと望むのか?

といったことを漠然と考えていて、ふと、先に述べた中学生時代の友人を羨ましく思った。
「変わらない、小さな世界でやっているね」 という感想の裏には、「充実して楽しそうだね」という感想がセットで存在している。
批判の裏には、いつもジワッと滲む羨ましさが伴っている気がする。
拓けた世界に目を向けても、上には上、下には下、左右を見ても無限が展開されている。
もはや、今となっては、揶揄されるかもしれない狭い世界で生きている方が幸せなのではないか?

といったことを漠然と考えていて、 ふと、方法的に「何らかの狭さ」に所属していく必要があると思った。
束縛からの解放を志向した10代-20代前半を経て、自らに任意の束縛を与えていく必要がある。
最近、頭のスロットには「原点回帰」という言葉が入っており、それもこの文脈とマッチしている。
同世代で頭角を現している人間は、気づいてか気づかずか、既にそのモードに入っていると思われる。
どのような束縛が望ましいか、が次の問題だが。

といったことを漠然と考えています。





最近、というか、この一年くらいは、ブログを書くのを意識的に控えていた。

環境の変化に伴い、目の前に日常が現れてきてくれるので、内容を貪るのに甘えていた、というのもあるが、
それよりも、頭の中のテキストが世界と繋がっている形式が、自らを縛りつけているのではないか、という考えがあった。
事実、その通りであった様に思う。

それでも、個人的には日記を取り続けていて、Evernoteで確認した所、19ヵ月分は溜まっていた。
ローカルに閉じた日記の形式は、世界に発信するには気恥ずかしいパーソナルな出来事を整理し、記録するのに適していた。
あと、単純に時間の使い方を考えてみた時、他を優先しようと判断したというのもあった。



--

最近、何かを考えてると、「原点回帰」という言葉に終着することが多いのが気になっていた。
(「「原点回帰」という言葉に終着する 」、は「腹痛が痛い」に通ずるものがあるか?)

例えば、「ゲーム?今更?時間の無駄じゃね?」みたいな気持ちから、「Youtuberが新しいマリオをしてる!ずるい!」といった素直な欲求、
「プログラミング?どうせ誰も見てないから意味なくない?」みたいな気持ちから、「このコンセプトを形にして見てみたい!」といった純粋な好奇心、
などの勢力が心の中で巻き返しているのを感じている。
まだ完全に巻き返してはいないけど。

その流れの1つとして、先程、日記を書いていた所、
「ブログ?(以下超略)」から、「自分の言葉が世界に波及する可能性があるのは素晴らしいのではないか?」とシンプルに思ったということがあった。



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昨日、ブラックナードフェス(黒人オタクの祭事)という音楽フェスに行ってきた。

そこには、インターネット経由で知り、気になっていた人達が何名も出演するようだったので、
なんとなく、使命感みたいなものに駆動され、行こうと決めていた。
その際、会社の音楽好きの同期を誘ってみたのだが、「一般の公民館で行われるようだ」という理由で拒否された。
そこまで調べてなかったので、驚いた。
ライヴ自体は、想定していた様な感じだったけど、面白かった。

一方、俺はこんなもんじゃないというバンドのメンバーの田中耕太郎という、旧知の狂人と世間話をしている中で、

「20代に感性が一度死ぬらしい。30代になると復活するらしいよ。」

と言っていたのが印象に残った。
また、歩いている乳幼児を母親が笑顔で腕の中に迎えていたり、
少年らが芝生の上で「ハンドスプリング」の練習をしていたり、少女らが「色鬼」をしていたり、
という公民館の広場の光景の鮮やかさが、自分の現状と予感に対して示唆的であった。



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今日、ハルカトミユキという、割と最近好きになったグループのライヴを見に行った。
前から思っていたけど、人を救う音楽、というか、在り方ってこういうものなんだろう。
特に、上述の文脈において、

「ただ生きていて こんな世界に今更期待などしない」

という言葉が心に残った。
情熱というものは大体、一晩で冷えてしまうものだけど、そうならない類のものだといいな、と思った。








03/15 水

春のなかった人々へ

日本酒でも開けようかな。
健康に良いのでワインを飲んでいる。ナイツの漫才を見ながらワインを一瓶空けた。

オッ、今夜は一月に一度の形而上的な"ポエムデー"かな、一月か二月に一度、人間が一堂にポエムを喋る日がある。
なんかそういう空気感や時代感みたいなのが社会の総体としてあるんだろう。
「ま~、全員ブチ殺せばいいんじゃないんですか?」という気持ちになる。
ま~

いつもの実のある忠告をくれよ。

"生活"という熟語の、"生きて"、"活きる"という意味の重ね方にイラついてきた。
色々な文脈があると思うけど、社会は人間の墓場だ、と強く思う。
社会がどうのこうのっていうより、25歳以降は死んでいるのと同然だと思う。
数年前から同じ主張をし、進歩がないという実感がある。
そういうことを考えていると、「全員、ブチ殺してしまえ」という短絡的、かつ思考停止な結論に陥りがちだと思う。
でも、それもやっぱり違うと思う。

ぶっちゃけ、父親が死んでしまっても別に悲しまないな、と思っている人
ぶっちゃけ、父親が死んでしまっても別に悲しまないな、と思い込もうとしている人
特に死にたくもないけど、「もうなんかいいかな」と真剣に思いつつも、「人生はもっと明るいはずだ」という希望を捨てきれていない人



仕事が始まってしまったから平日は何もできない、というより、
ただ、年を食っただけなんだろうな、これが加齢なんだろうな、という思い、
或いは、若いっていいね~、とぬかすおじさんの言葉、に対する納得が頭を往復してしまっている。
筋肉少女帯の初期の歌詞(確かCheap Trickという曲)で「缶詰工場ででも働きたくなる」みたいなのがあるけど、
私は本当は新しいモノを生み出したいという気持ちは毛頭なくって、
上から指示されたことを着々とこなすような仕事を求めているのかもしれない、という気持ちに支配されつつある。
エマ・ワトソンの顔面を見るとイライラする位には人格が歪んでしまっている。
清王朝
なんか、単純にもう無理な感じがある。



正直いって、今年は何らかの義務感で日記やブログを書き、日々の振り返りを行っている節がある。
充実というと語弊があるため、敢えてその言葉を使わなかった。
 
今年は社会人になって、人と一緒にいる時間が多くなった。
1人の時間は、音楽を聴きながら布団の中で寝っ転がっていることが多い。
 
自分を駆り立てる義務感の根源である所の連続性として、このブログがあると気づいた。
そこで、一年間の集大成と意識の底で捉えていると思われる、12月のブログ投稿を振り返ってみた。











先日、友だちのデザイナーが自分の人格を「ユニバーサル・デザイン」と評してくれたことがあって、嬉しかった。
2010-2013辺りの、底の底の底の底があってこその現在があろう。
 
我ながら、過去のブログ記事はギリギリの精神状況下で紡ぎだされた珠玉のフレーズが満載なので適宜参照されたい。
こうした過去の振り返り行動が、パッとしない現在に勇気をくれる。
かといって、過去に唱えた呪詛に突き動かされる筋合いはないのも事実だが。
 
2016 (社1)を振り返った時、「飛躍の年」という言葉がまず思い浮かんだ。
より厳密な印象を述べると、「助走をつけて踏みこんだ所で、臆病にも時間を止め、停滞している」。
来年こそは、飛躍の年であらんことを。
 
誠の心で、引き続き頑張っていきましょう。




 






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