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キェ―――
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目次
・他人について
・部屋について
・手応えについて



・他人について
クズアンドクズの存在
保守性
大も小も同じような、黒い影
僕の放つ光がつくる影は物理を超えて僕の心にかかる。
影の面積に対応する部分が針状になって一本一本が刺さる。
同じ人間の面の皮
他人のイメージは目の付近がある
眼球付近の筋肉が何を語りうるのか?
それぞれの生き方というものは事実"在る"。

説明と詩性のバランス
今が息苦しくて身動きをすればする程、
安らかな地点はどんどん遠ざかって行ってしまい、行く末はいずこ。



・部屋について
部屋は精神を喩える鏡。
ならばこの部屋を解き放ち、充実さすしかあるまい。



・手応えについて
新しい事はそうそうと無くて、今後、これからは密度を濃くする必要...
...なんて言うのは全くの誤りで、
薄々は感づいていたのだが、やっぱりこの世界は広すぎて、
完全に理解・把握し、この手に収めてやろうといくら努力しようにも、
自分に与えられている時間と装備がそれを許さないのを、
様々に託けて、昔から義務づけられてきた思考なる行為を、緩やかに、
あるいはすっぱりと止めていく様を「成長」という尤もらしい名を付け、
自分を含む他人を巻き込む目的で行われる"事実の形成"を過去に積み上げていって、
力を付与していくことで、楽になろうとし、楽になっている。

時間的な一貫性を有する場を偶然にも持ち得た事は幸運だったのかも知れない。
これは俺が持ち得た装備であり"才能"である。
巨大な何かを押し込んでいるのか、
紐状の何かを引っ張っているのか分からないけれど、
2014年、この1年で感じたのは、
世界に働きかけていった結果の、何かしらの手応えである。
そしてこういう場だから言わせてもらうが、
理工学の研究で培ってきた直感が「行けそう」と言っている。
が、圧倒的に時間が足りないし、これ以上はこれ以上の覚悟が要る。
が、引き続きこのようにやっていきたい。

とても自然で滑らかにイマを伝えて行く技術



本当 この年になって友達は愛と勇気だけという言葉に賛成するようになった。自分が信じざるをえない偏狭な、という最悪の注釈付きだけどな。狂っていない自己と狂った他己の証明を求めた。人間の変化っていうものはありえますかね? 客観的に見てよ。もっと。僕が面倒を見ている後輩は精神病院に通っているようだ。その話を彼が度々するとき、僕は苦笑いをしながら言葉を探すことしかできない。炭酸に密度はあるのか。具体的に言うと、容器内座標系における泡の発生確率分布および泡の大きさの時系列モデルによる説明。泡の大きさとは? 泡はどういった"大きさ"になったときに"発生"するのですか? それが分かるとなにがうれしいんですか? 持て余す現実 風のように脇をくすぐり髪をさらって行く現実 出入りするエネルギーをどうにかして留めておく術はないものか。植物の成長に目を離すな。何を求めてどこへゆくのか。不感症ってなんだ? 優しさに欠けた人間が世にまかり通っていて、そしてそれらに対して僕はどうしようにもできなくて、だけど僕の心に直にその手で触られるとさすがに応える。ベタベタ触らないでくれ。そんな顔で僕を見ないでくれ。人々が笑ったときの目尻と見える白い歯の列、口角から頬にできる皺のイメージが脳裏から離れない。それらが頭の中をめぐっては、少しずつ自然と僕の心に占める領域を増やしていく。それらはひどく非対称で不公平だと昔から主張している。そして呼吸はどんどん浅くなってほとんど吸わずほとんど吐かなくなる。細胞が呼吸をしていない。たぶん中は茶色い。言っておきたい言葉はあります? 定期的に格の違いが思い知らされるもそこに罪は無く、僕はただ自分の傲慢さを恥じ、未来に対する不安を新たにする。人間が経験する時間は加速度を持っている。時間の絶対性は意外と特殊な場合であるようだ。そう時間なんて"気の持ちよう"だよ。その先は考えないほうが幸せかも知れない。ゾウの糞大の溶岩石が体にボカスカ当たって、非常に騒々しく、体の軸はブレるわだが、不思議と不快感や痛みはやってこない。それは気のせい。次のステップは死である。ひとつひとつを手繰り寄せ、殴り、かち割っていくと黒い粉となる。だからといって粉は吹く風に吹かれて大気中に散るばかりで手元には何も残らないにも関わらず、自分の気が済まない。また、死んでないだけいいことなのかもしれない。いいこと、他人にイメージの補強を求めてしまわないように。処理が追いつかない。硬直してはいけない。



あれを思っていたらこれを思って、だけどそうでもないなと思って、でもアイツはああだったからやっぱりそうだなと思って、あの人はああ言ってたからこの点においてはこうなのかも知れないと思って、てゆうかそもそもこれだけの情報で価値判断を下すのはおこがまし過ぎるわ、やめよう、と思ってはみたものの、そういえばあの時にああしとけば良かったなということを思い出して、その後すぐにあの時はああいう状況だったからしょうがないという風に思うようにしようと思ったことを思い出して、しかしながら今思うと他にも全然やりようがあったから反省しなきゃな、と思って、いやいや今はそんな事が問題じゃなくてあの人がどうであるかも別に問題ではないし待って、そもそも問題ってなんだったっけ、と思って、あれがこうなっていって俺がこう言うと俺とあの人の性格上多分こうなるからそれは、いやあの人がこうとは限らないけどまあそうか、まあ俺も多分そうだから、明日こうなった時にああ言った方がいいのかなフフフと思って、違う、考えるべきはあれだったよ忘れてたと思い、まあでもあれに関してはもう成り行きに任せた方がむしろいい気がするからどうでもいいか、と思い、そう考え始めるとそもそも何も別に考える必要なんて無いのかなと思うが、違う、考えることで回避できるリスクもあるし、いい方向に向かうような事柄もあるからそれは間違ってると思い、思考停止を行なうボーダーはどうしようかな、と思って過去や人の歴史を鑑みてみても、んーまー別に過去も他人も自分じゃないからなんとも言えんな、と思って、あれを思っていたらこれを思って、だけどそうでもないなと思って、



特に意味なんてないよね、生きるってそういうことかな
と思って 書いてみて読んでみると 心が穏やかになるまではいいが、
集中力記憶力 とか
センスが無いんだと思う。
久しぶりにテレビの歌番組を見ると、
いつの間にか 紛れも無く大人になってしまった自分を見つけて、
みんな大人だナー、と思うと同時にとてもつらくて目を閉じた。
世の中には 本当に大切な事って少ないけれど、
外に出かけるときには姿勢を伸ばして胸を張って歩くようにはしたいな。



羞恥心は自他を比較することから生じる。より正確にいえば、自他を比較し、自分は他人になれたはずなのにどうして自分のままでいなればならないのだろうと疑うとことから生まれる。流動性のある社会、あるいは誰もが「騎兵」になる可能性をあたえられている社会に生きる母の心に生じる動揺の表現である。

彼女は今、狂気の拘束のなかでかぎりなく「自由」である。その「自由」さのなかにときどきあの奪われた世界が復活する。彼が「喪失」し、「自由」になったということは、彼があらゆる役割から開放されたということである。このとき、人はそこで日常生活が営まれている社会の次元から、単に存在している もの の次元にすべり落ちる。

生きつづけるためには、人は何らかの「役割」を引き受けなければならないから。この希望も絶望もない不透明な世界のかたち

彼は充実しており、「生きている」が、それは彼がイメイジを回復しているからである。時子は死にかけているが、彼は「幸福」である。時子が死ぬので「幸福」なのではなく、「母」を自由に思い描ける自分が「幸福」なのである。われわれのなかに「母」との合体を求める原初的な衝動があり、「母」に拒まれあるいは「母」を拒んだ罪悪感が澱んでいる以上、「母」に赦されつつこれを汚すという救済が感動的なものでないことはない。

「突然の不在」ではなしに、むしろ「無限の偏在」というべき象徴

なにもかもの崩壊や不在への「恐怖」のために、人は「治者」の責任を進んでになうことがある。しかし、「治者」の、つまり「不寝番」の役割に耐えつづけるためには、彼はおそらく自分を超えたなにものかに支えられていなければならない。しかし、あるいは「父」に権威を賦与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかもしれない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、その前から実在は遠ざかり、「他者」と共有される沈黙の言葉の体系は崩壊しつくしているかも知れない。彼はいつも自分がひとりで立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯え続けなければならないのかも知れない。だが近代のもたらしたこの状態をわれわれがはっきり見定めることができ、「個人」であることを余儀なくされている自分の姿を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて「小説」というものを書かざるを得なくなるのかも知れない。

江藤 淳, "成熟と喪失 -“母”の崩壊-", 講談社 (1993).



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