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キェ―――
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客体がある。私はなぜ衝撃を受けるのか。自分にとってまったく新しすぎる概念を知らされたからか。自分が行なってみたいという憧れの気持ち、といった方が適切であろうか。これは単なる憧れ、妄信的にすがりつくという類のものではなく、自らをその地点に近づけたい、という意味においてである。つまり、自分の能力としての吸収を志向する対象としての憧れ、ということになる。もっと短くいうと、理想である。次ぐ問いは勿論、なぜ自らに吸収することを望むか。理想はどのような過程で形成されるか。これは意外と難しい問いである。強くなりたいから、は、正確には答えになっていない。数多の客体ではなしに、なぜそれに強さを見いだしたのか。それは恐らく、これまでの人生に依存する性質のものである。理想が新たな理想を形成し、ここまで続いているのが現在で、これから先も永遠と続いていく、といった構造があるのではないか。となると、理想を逆さまに辿っていった先に位置している何かが答え、とはいわないまでも、何らかのピュアな印象ではないだろうか。何が目指してゆく理想像を形成したかという帰納、および何が形成されていくかという演繹は、偶然の産物であり、人間の自由意志は介入を許されないのか。極論が過ぎるのは認めよう。精神や行動に与える程度の開きはあれども、何が自分を漠然と方向づけてきて、漠然と方向づけていくかというだけのものである。女がいるところに男あり。ラ・カンパネラを演奏する黒人がいる。客体の多くは偶然の下に並べられ、それらに意味を与える私の思考体系のルーツも然り。また、ここに活字として顕され、私の思考を縛りつけるであろうこれらの文言もその域をでないものである。人間の自由意志はいずこ。私はいま、どうすればよくなる? 私はこの世の中のこうした偶然性に対して、日頃から強い憤りを覚えている可能性が高いことがわかってきた。報われない努力、苦しみというものはその最たる例で、支払った負荷に対する報酬は保障されないのが条理だ。便宜的に全能の神の存在を認めたとして、瞬間瞬間における私は、過去の偶然に縛りつけられ、神の判断、すなわち必然性というものを持ち合わせていないと考えるのは妥当である。必然はどこにある? 少なくとも純粋な数学の世界には存在しているという事実からも推察されるように、この世の中に存在していることは確かであろう。数学のように局所的な分布ではあるけれども。つまるところ、偶然を必然に変える強さを私は欲している。強いということに関して、暴力は最も野蛮な必然の形だ。唯、殴れば相手を黙らせることができるから。何ごとに関しても、程度が高いものに対して暴力性を感じるのは、偶然を必然に変える強さがピュアな暴力と似ていて、その強制力が高いからではないだろうか。例えばこの文脈でいうと、弱い音楽は偶然に人を感動させるだろうが、強い音楽は必然に人を感動させるだろう。弱い音楽の感動は、場に存在する人間によるという不確かさがあり、さらに、人間は不確かな形で決まっている。繰り返しになるが、私は根本の部分として、人間の自由意志に必然性を与えたいのではないか。そして話を最初に戻すと、何らかのものに対して吸収を志向するのは、どんな次元であれ偶然に必然を突きつけられたとき、同様の強制力を自らも行使することを望んだためであると考えられる。以上の考察により冒頭で発した問いへの一応の結論を得たが、自由意志に力を与えるための、そして、客体からの力を自由意志の下に受容するための、あるいは退けるための最適な方策は依然として不明である。空虚な時間であった。



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