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キェ―――
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伝えたいことがあると思い込んでいた。
自分には世界に伝えたいことがあると思い込み続けてきた。
変化に形跡を残すことができれば報われた気持ちになるだろうか。

妄想だけで日々が彩られる凄惨さ、この次元には肉体だけが無かったのだ。
いつも頭から離れない憧れと裏返しのタイプの憎悪を愛と勘違いしている節がある。
少ないものに翻弄されるのはもうやだ。

妬みの醜さを己の中に見て、自分を基準とした対等さを他人に求めているのに気づいた。
所属している社会における日常の活動、
同僚に対するささやかな気遣い、
今夜食べる食べ物、
車窓から見える風景、
にまで及んで生きるあらゆる行為に意味を、見返りを求めている。

これより最悪なものってあるか?
じゃあこれからどうしていこうなんて、考えたくもない。



現象によく目を向けなさい。また、よく読みよく見つめなさい。
貫き通してさえいれば治癒だって早い。
違う違うと反対呪文を唱え続けることで変わればいい。

蓄積した予感が私を駆動する。
生身の人間を前に初めて本音の切片を見せたかもしれない。
自分が正直でいることができるような場を求め、その先で大切にしていければ。

与え続けることでしか満たされない聖地へ辿り着こう、
という言葉があった。
イマなにを考え、ツギになにするかなんだろうね。
円の領域を拡大していきたい。
2015年の目標は聖人である。



目次
・他人について
・部屋について
・手応えについて



・他人について
クズアンドクズの存在
保守性
大も小も同じような、黒い影
僕の放つ光がつくる影は物理を超えて僕の心にかかる。
影の面積に対応する部分が針状になって一本一本が刺さる。
同じ人間の面の皮
他人のイメージは目の付近がある
眼球付近の筋肉が何を語りうるのか?
それぞれの生き方というものは事実"在る"。

説明と詩性のバランス
今が息苦しくて身動きをすればする程、
安らかな地点はどんどん遠ざかって行ってしまい、行く末はいずこ。



・部屋について
部屋は精神を喩える鏡。
ならばこの部屋を解き放ち、充実さすしかあるまい。



・手応えについて
新しい事はそうそうと無くて、今後、これからは密度を濃くする必要...
...なんて言うのは全くの誤りで、
薄々は感づいていたのだが、やっぱりこの世界は広すぎて、
完全に理解・把握し、この手に収めてやろうといくら努力しようにも、
自分に与えられている時間と装備がそれを許さないのを、
様々に託けて、昔から義務づけられてきた思考なる行為を、緩やかに、
あるいはすっぱりと止めていく様を「成長」という尤もらしい名を付け、
自分を含む他人を巻き込む目的で行われる"事実の形成"を過去に積み上げていって、
力を付与していくことで、楽になろうとし、楽になっている。

時間的な一貫性を有する場を偶然にも持ち得た事は幸運だったのかも知れない。
これは俺が持ち得た装備であり"才能"である。
巨大な何かを押し込んでいるのか、
紐状の何かを引っ張っているのか分からないけれど、
2014年、この1年で感じたのは、
世界に働きかけていった結果の、何かしらの手応えである。
そしてこういう場だから言わせてもらうが、
理工学の研究で培ってきた直感が「行けそう」と言っている。
が、圧倒的に時間が足りないし、これ以上はこれ以上の覚悟が要る。
が、引き続きこのようにやっていきたい。

とても自然で滑らかにイマを伝えて行く技術



本当 この年になって友達は愛と勇気だけという言葉に賛成するようになった。自分が信じざるをえない偏狭な、という最悪の注釈付きだけどな。狂っていない自己と狂った他己の証明を求めた。人間の変化っていうものはありえますかね? 客観的に見てよ。もっと。僕が面倒を見ている後輩は精神病院に通っているようだ。その話を彼が度々するとき、僕は苦笑いをしながら言葉を探すことしかできない。炭酸に密度はあるのか。具体的に言うと、容器内座標系における泡の発生確率分布および泡の大きさの時系列モデルによる説明。泡の大きさとは? 泡はどういった"大きさ"になったときに"発生"するのですか? それが分かるとなにがうれしいんですか? 持て余す現実 風のように脇をくすぐり髪をさらって行く現実 出入りするエネルギーをどうにかして留めておく術はないものか。植物の成長に目を離すな。何を求めてどこへゆくのか。不感症ってなんだ? 優しさに欠けた人間が世にまかり通っていて、そしてそれらに対して僕はどうしようにもできなくて、だけど僕の心に直にその手で触られるとさすがに応える。ベタベタ触らないでくれ。そんな顔で僕を見ないでくれ。人々が笑ったときの目尻と見える白い歯の列、口角から頬にできる皺のイメージが脳裏から離れない。それらが頭の中をめぐっては、少しずつ自然と僕の心に占める領域を増やしていく。それらはひどく非対称で不公平だと昔から主張している。そして呼吸はどんどん浅くなってほとんど吸わずほとんど吐かなくなる。細胞が呼吸をしていない。たぶん中は茶色い。言っておきたい言葉はあります? 定期的に格の違いが思い知らされるもそこに罪は無く、僕はただ自分の傲慢さを恥じ、未来に対する不安を新たにする。人間が経験する時間は加速度を持っている。時間の絶対性は意外と特殊な場合であるようだ。そう時間なんて"気の持ちよう"だよ。その先は考えないほうが幸せかも知れない。ゾウの糞大の溶岩石が体にボカスカ当たって、非常に騒々しく、体の軸はブレるわだが、不思議と不快感や痛みはやってこない。それは気のせい。次のステップは死である。ひとつひとつを手繰り寄せ、殴り、かち割っていくと黒い粉となる。だからといって粉は吹く風に吹かれて大気中に散るばかりで手元には何も残らないにも関わらず、自分の気が済まない。また、死んでないだけいいことなのかもしれない。いいこと、他人にイメージの補強を求めてしまわないように。処理が追いつかない。硬直してはいけない。



もつれた因果を見下ろして、君のことばかり考えている。そう思っているような気がしているだけで、この世界というものはこれから何年かかっても理解はできないだろう。自由は二つあれば、かなり自由だ。自分が自由であると信じ込むことができれば、好青年あるいは狂ったフリがかなり板についてくる。その不自由さ、軸の少なさに対して先端を向けた嘲笑を行なってはいけない。なぜならそれはとても正しい形であるから。その場合でない文脈のみでしか成り立たない議論であるから。いけないというだけで可能ではあり、私はそれを行なうような人間である。タブの右上の×のような人間には我慢がならない。瞬間を見れば正しいが、時系を見る視点に欠けている。この、低く狭く暗くて汚らしい私の空間には試行は無く、錯誤にあふれている。待ち受けの怯えたピカチュウは何も語ってはくれない。ネタが揃うまで、もつれたなりに粘って粘って、身辺整理を続けているだけの毎日は今考えうる最悪の下を生み出しそうだ。自由度を確保したまま動き続けていき、筋を通していった先に快感を得ることを目指すのが人生か。何が自分を創ってきたかが分かれば創っていくことができるとすると、私には基本的な技術と手法の習得が必要であることは明白であるのに、駆り立てていくもの、必然性が足りない。社会全体に蔓延るこのムードこそが平成ゆとり世代の正体である。ゆとりのある生活。後悔が変化を生じ、時代の中における自分の細胞の回復および創発能力に期待する?人間関係において、防御は中程度の攻撃。でもやっぱり、身辺整理は必要。



肌に高次元物体の気配をスッと感じたときのエネルギー



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geroppii
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