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キェ―――
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「はい? あ、私の短所ですか? 物事を良く考える方であるにもかかわらず、考えが体系的に整理されていないため、表現の瞬発力がその辺の猿にも劣ることと、本音をぶつけ合う友達が1人もいないことです。」

 比較的、人より多く文章を書いているだろうから十分だと勝手に思い込んでいたが、普段から頭の中を飛び交う情報量が多すぎて、ただ頭の中で無駄に持て余しており、アウトプットの絶対量が圧倒的に足りないのに気づいた。分かりますか? ツイッターやブログは低レベルすぎる思考の下書きとしてはスピード感と簡便性、許容の慈悲が足らない。今こそアナログの道具が必要なのだ!!! この先はどれほど長いのだろうと不安になる。自己分析とやら、一日20000字でも足りない。思考の収束の先が見えない。これらは「回顧」にカテゴリされる。まあしかし、この気づきが、唯一、就職活動における収穫となる予感がある。不安定なものに不安定なものをしっかり積み上げていって、有り得ない形の構造物を建てる。詩性は甘え、手足を高速で動かして眠れ。






 尊敬できる人、というのは刺激を受ける人、影響される人、という理解でいいのか? 影響されるから尊敬する、自分を変えるほどの何らかの力を持っているから尊敬するのであるか? 定義、何を持って尊敬できる人とするか。具体的エピソードを挙げていって、それらに見られる共通項から抽象化していくのが良いかもしれない。まず、小さい時は、工作の先生・ピアノの先生かな。やはり先生というのは、その性質上、影響というものを確実に自分に与えるものであるから。そういう意味では、あまり両親は尊敬していないかもしれない。現在も影響を受け続けているかという点において、かつて尊敬していた人ではあるかもしれないけれど、精神的な面における影響は、倹約および家族を無条件に大切にするという事項以外はないかもしれない。むしろ自分にマイナスに作用する影響が大きく、今もなお強い強度で呪い続けていることを鑑みると、尊敬できる人、という枠組みでは不適であると考えられる。先生は若干微妙なラインではあるが、今でも「先生」という存在として心の中で鎮座している両先生は尊敬できる人であるかな。特に、工作の先生は今一度対面してみたいところだ。そのうちやってみたいな。十年ぶりの対面、どういう印象を持つだろうか、少し楽しみだ。

 しかしながら、影響されたという点において、まず、挙げられるのが小山達矢氏(TK氏)であろう。あの人との出会いによって(かなり一方的ではあったが)、私の人生の方向性は決定付けられた、と言えるかもしれない。彼は、私が一方的に旧知と感じているだけで、実際的な関わり合いは殆どと言っていいほど無い、4歳上の方であり、長きに渡って「人生の先輩」であった。現在は恐らくDeNAに勤めていると予想している。最初の出会いは、家にWindows XPがやってきてどれほど経ったかといった頃、自身の興味だけで動いていて、インターネットの広さというものに漠然と魅了され、ただ彷徨っているだけでただ楽しかったあの頃、GBAソフト・ロックマンエグゼ3の掲示板に貼られたURLが事の起こりであったと思う。初めて見た時は、刺激的に装飾された「俺式」のバナーに目を引かれ、鼻から血を吹くアンパンマンの背景画像のパターンに驚き、すぐブラウザを閉じた。その後、やっぱり気になってしまって、怖いもの見たさで何回も訪問していった結果、最終的には全てのコンテンツを言葉通りなめ回すように見るようになった。そのサイトの管理人が前述の小山氏である。具体的な時系列としては、恐らく私が小学校の3・4年生時、即ち12・13年前であったと思う。その時代は、今よりもっとインターネット文化は混沌としていたかな、僕が知らなかっただけかもな。影響を受けた内容というと、枚挙に暇が無いが、まず、プログラミングの勉強をするようになった。それは、小山氏が公開しているゲーム作品が最高であったためだ。今思い出しても最高だし、それらにハマってた小学生時代の私も最高だったと思う。「ウオー!リーを探せ!」や「ゴリゲッチュ」、「クイズミリ俺ア」、「酸っぺえッス!インベーダー」などのパロディ作品から、「ワードバトラー」、「プリント迷路」、「俺式ホッケー」、「氷結君」などの独自色が強い作品まで、全てを愛していた。今となっては、ゲームとしてのクオリティは大したことは無いのだが、所々に散りばめられたアイデア、しょうもない効果音およびしょうもないグラフィックが絶妙のバランスを保ち、その勢いに圧倒されていたと考察される。元々TVゲームが好きであった性質に加えて、そういったゲーム作品を自分で「作れる」、という事実に衝撃を受けていたのだと思う。この頃から、近所の図書館のプログラミング書籍コーナーに通い詰めるようになった。そしてもう少し言うと、高校の進路選択の段階で、理科系の進路を採ったのもプログラム好きであり、理科系でなければならないという観念があったかもしれない(再考の余地在)。あと、文章を書くこと、そしてそれらをネットで公開することに魅力を感じるようになった。彼が書く膨大な「ネタテキスト」は本当に面白く、当時はほとんど暗記するほど読みこんでいた様に思う。これは今も尚、糸を引いている部分だ。ゲームや文章に限らず、自らの創作物をネットで公開して、それに対するリアクションをもらう、という一連の流れを常識とする心理的な土壌というものは、この人の影響によって、この頃から培われたのであろう。それは、私が最終的に目指している「創作物およびその周辺情報の無報酬提供への憧れ」へとつながっていると思う。自分の創作に関する原点はこの辺にあるのではないか? あと、自分の美的感覚、ではないかな、と言うより、自分の「面白の軸」、みたいなものは、この頃の小山氏の延長線上に位置していると考えている。残念な事に、彼本人の軸は別の次元に移ってしまったようで、今は見る影も無く、とても悲しい。まあ、彼の発する最新の技術的な話題に関する信頼は今も置いている。いずれにしても、モノ、ネタ、面白いこと、を考えるようになったきっかけではあるかな。しょうもないシュールな笑い、みたいな、言葉で簡単に言い表すことのできないHP全体としての雰囲気。このブログの前身に、僕もサイトを作っていたことがあって、それは本当に彼の劣化コピーに過ぎなかったように思う。多くを記憶しているつもりだが、そのうちアーカイブサイトで見直そうと思っている。そして、当たり前のことだが、自分が歳を取ると小山氏も当然歳を取る訳で、自分の成長とともに、彼は4歳上の「人生の先輩」として自分の上に降臨し、影響力を持ち続けていたのだった。僕が小学生のとき彼は中学生、僕が中学生のとき彼は高校生(高専生)と、彼は絶対に追い越すことのできない先輩であり、日記コンテンツから見る勉強のことや部活のことに関して、彼の現した言葉のひとつひとつから自分の未来に関するイメージが無意識下で形成され、限定されていった。それは多分、僕が精神的に常軌を逸し始める高校2年生くらいになるまで続いていたと思う。この辺りは、僕が被害妄想的に拡大解釈しすぎているかもしれない。また、僕は一方的に彼を良く知っているつもりでも、向こうの方は、僕の方を全く検知していないというインターネット社会におけるコミュニケーションの非対称性みたいなものが現われているのも興味ぶかいと思う。だからまた、そのうち、何らかの形で実際的に接触を試みたいと思う。とても楽しみだ。いずれにしても、小山氏が私に及ぼした影響としては、①プログラムへの興味 ②文章を書くことへの興味 ③創作物をインターネットで公開する感覚 ④「面白の軸」、が挙げられるか。こうまとめてみると意外と多岐に渡るな...。では、なぜか?ということを考えると、新しい事、自分の知らない事をやってたから、と言うと、知らないことは幾らでもあったはずなのに、なぜそこに惹かれたの?と言うことになる。なぜか? 直感、としか言いようがないな。それは間違っていたとは全然思わないし、むしろ、現代、時代の必然であったようにも思える。時代の先というものを行っていたともとれるかな。しかしながら、彼が、周りを鑑みることのない性格として私を作り上げた諸悪の根源であるようにも思える。彼がいなければ、彼との出会いが無ければ、私の興味は、他の人間達と同じ健全な方向に向かっていった可能性が高いのだから。中学時代は、客観的に見て、尊敬でき影響されるに足る凄い人間は周りにもいなかったし、彼に夢中であった。パーソナリティ全てが現れるわけではないインターネットを介した、今思うと決して広いとは言えない彼の趣味趣向の一側面によって、私の思考は縛り付けられていた。そうして、狭い方狭い方へと向かい、容易に可能であった輝かしさを閉ざしていった。そんなことを今更しゃべっても仕様がないが、まあ、そういうことがあったのだった。



ナイス奉仕 1年D組

 奉仕という教科が導入されて最初の年度ということだった。今でも色々と疑問は残っているが、悪くはない経験だったと思う。しかし普通に読書とかをしていたかった。
 活動は、児童館での体験がメインだった。児童館の子どもたちは、正直僕の手に負えなかった。子どもたちはそれぞれ独自の世界を持っていたように思える。笑いのツボというか、そういったセンス根本のようなものが僕とは違っているなあと感じた。それは今は失ってしまったもので、それが良いのか悪いのかは知らないが、かつて僕もそんな感じだったのだろうかと思うと微笑ましい。しかし、子どもたちの発想は単純で、それでいて純粋なものであり、それらは楽しく、すばらしいというのは確実に言えるに違いない。とか言ってみても奉仕とは全然関係ない。
 先日、東京マラソンの給水の補助役員ボランティアなる行事にも参加させてもらった。個人的には、にしおかすみこを拝むことができなかったのが心残りだ。それはどうでもよくて、思っていたより充実したものになったと思う。担当の人もいい人で、丁寧に色々と教えてくれた。テレビとかでも騒いでいたが、僕らや、その他大勢のボランティアの存在がなければこの大会は実現し得なかったのだろうとしみじみ思った。この大会のテーマは、「環境保全」という話で、スタッフの服等も、ペットボトルのリサイクルによって作られているというのも良い取り組みの一つだ。しかし、余って捨てられた何百リットルものアミノバリューが可哀想だ。確か、地球の全人口の何分の一かしか安全な水が供給されていないという話ではなかったか。しかも、猫ひろしも見れなかった。ちっちゃいからか。だが、全体としてこの大会は成功に終わったようだし、それを構成する歯車の一つとして働くことができ少しでも貢献することができたというのは大きな収穫と言っていいだろう。ありがとう、石原都知事。



小学校で初にできた友達はファービーを声が変になるまで虐待していた。



馴れ初めは、俺がひた向きに平仮名ドリルの文字をなぞっていたところ、
座席が丁度目の前だった彼が、後ろを向いて、何やら鉛筆のお尻の先に、
おどろおどろしい紙人形をセロテープで固定したのをチラつかせてきて、
やめて、邪魔しないでよ、と手で払いのけたらそれを破壊していしまい、
彼がキレて俺の顔面に引っかき傷を残して一緒に保健室に行ったことだ。

彼は三島由紀夫の小説に出てくる人物の少年時代のような少年であった。

彼はずっと保険体育の教科書にある薬物乱用者のサンプルの字であった。
「富士学園移動教室の思い出」における彼の文章は、今読んでも最高だ。
その他の連中はそこで起こった出来事の時系列の叙述に終始している中、
日本サッカーの敗戦と翌日の鈴木宗男の逮捕が印象的に述べられている。

デジモンバトルで彼のエテモン(完全体デジモン)が死んでしまったとき、
お前も殺してやると僕のデジモンキーホルダー機械を強奪しようとした。
彼とその母親に「たばこと塩の博物館」に行かせてもらって楽しかった。
そのお母さんはいつもガムを噛んでいて一人息子を過剰に寵愛していた。

ファービーを紐で縛り上げて棒で殴打しまくる遊びはかなり嫌悪感があって、
彼の家に行くときは毎回少し憂鬱だったが、拒否する感じではなかった。
(そのあたりは、てゆうか小学校低学年近傍の自分はかなり聖人だった。
 あいつお前のこと好きらしいよとかいう噂を帰りの会で耳にしたとき、
 僕なんかのことを好きでいてくれる人がいるんだな、それは嬉しいな、
 と青空と入道雲の帰り道に本気で思った鮮明な記憶がある気がする。)

そんな彼との関係もいつか中学年くらいから早くも疎遠になっていった。
少年というのは無邪気なもので、無意識的に自分がどんな人と近づいて、
どんな人と離れゆくかなんてこと、その動機について考えることは無い。

その後特筆することは無く、確か中学3年生のとき同じクラスだったが、
合唱コンでやや斜に構え乍らも優勝してニヤリとするのが最後の記憶か。
いや、高校生のとき帰宅中一回擦れ違い様に確かに見かけたのが最後か。
いやいや、変わらぬ筆跡の年賀状に対して、室伏で応戦したのが最後だ。



今はどうなってるか全く知らないが他人を罵りながら楽しく生きてるか、
俺を、更に濃縮してドロドロしたような青春をしているかの二択だろう。
たまに、しばしば、そして今、酒をのみながら彼との因果を考えている。
僕は覚えてるよ 君を覚えてるよ~という歌

今までで「こいつはやばい」、と思う同級生は今までに約、3人。
何でも程度の高いものに取り憑く圧倒的暴力性と崇高な孤独
人はそれに近づくことを避けることが多い。
 



11/1
ああ この世は地獄だ
パフュームのテレビ番組の動画を全部見ていたら一週間が終わった南無
のっちのねー金魚さんは可愛い



11/4
超伝導とか超興味ない。何が言いたいんお前



自分が高校生のとき、実習でやってきた美大生が受験で毎日絵を描くのが辛かったというのを聞いて
じゃあやめればいいじゃんヘラヘラなどと人に話したことをたまに思い出す。
俺だって、素直に演繹してただそうすべきだから、すべき 今や理由だけが残った なんていうと薄ら寒いか

過去を点検するのは日課の一つだ。

自分が中学生のとき、僕は真面目であったので学級委員であった。優等生やってた。
他のこの委員というのは皆顔がよく頭もよく性格もよい生え抜き揃いで、学年を通して行われるその会は、
必要な決定事項の議論、実際は世間話、時に教師も交えて談笑するような場であった。
お前今あいつとどうなったん、てゆうかみんなそう言うけど~みたいな
なんというか、本来的に、無自覚に力を持つ者同士が互いの素晴らしさを認め合うことに酔い、全体の維持を指向するあの感じ。
圧倒的な欺瞞は誰も認識しない。
僕はというと、その中でも一目置かれていたような気もするにはするが、思えばいつも貝であった。それはよく覚えている。

そして、卒業式にあたり、我々が発する生徒代表の言葉を我々が決めよう、
みんなで作文を書いてきてそれを繋ぎ合わせようということになった。
それで、僕もここは一つ総括をしよう、と朝5時に起きて自分の言葉で素直にこれまでの感想を認めたのであった。
それを学校に持っていったら先生も含め、本当に言葉通り一笑に付されて片付けられたときには
どうしようかと思ったが、不思議と恨めしくは思わなかった。なにかぼんやりと思ってたけどよく覚えてない。
当日、僕以外の8人のパッチワークが、当たり障りの無い言葉の羅列が、誰かに涙ながらに延々と読まれたりしたが、
(これは誇張なしにクソのように長く、合唱で高ぶった心が上の画像のような指数関数的に収束するのが感じられた)
式の終わりの方で俺が台地山椒を弾くターンで、これは卒業式なんだから悲しくならなければならない!と努めようとした記憶がある。
書いてて思ったけど完全に地獄だろこれ。俺が被害妄想を膨らませすぎたか。
反感が押さえ込まれているのか、単にでてこないだけ鈍いのか、まこと滑稽である。
こんな過去の瑣末は誰も覚えていないだろうが、僕は向こう10年は忘れるつもりは無い。
てゆうか最近もう人の悪口しか言うことがないんだよ...最悪や...

近況はというと、もうすぐ研究室に配属される。どこにしようかと思っている。
所さんがきのこ狩りをしていて楽しそうだ。




去年の暮れまで、丁度一年間くらいラーメン屋でバイトをしていたんですけど、今求職をしている。
もうね、ここいらで人間慣れをしとかないと先にあるのは死だ、と一年前の僕は悟ったわけですね。
その成果はというと、うまくやれんだかやれないんだか不明瞭なグロテスクの相を呈している。ていうか多分にやれてない。
今回、一年間殆ど語ることの無かったそのラーメン屋の思い出を綴ります。すげーありがちだけどね。



お店はラーメン屋って言うか中華料理屋と言うのが適当かもしれない。
店長(60代女性)+社員(20代女性)+バイト一人という三人体制で、バイトは調理しないでホール・雑用をしていました。

その店の特徴として、厨房が料理を作るのが非常に遅いので、客を30分以上待たせることはざらで、
然るべく生じる不穏な空気をホール担当の俺が全面的に体験しなければならないという苦役がありました。
悪いときには、あんま関係ない俺が超怖い土方のお兄さんに何分か説教を食らったりした。
(厨房は無視。超理不尽)
(つーか問題は明白、メニューが多すぎ。
 ピーク時には俺はテンぱってしまってラーメンこぼしたりするし、
 明らかに店長も頭が回っておらず、関係の無いレバニラを作り始めるなど負のスパイラルとなる。
 痺れを切らした俺が店長にランチメニューという概念を提案したら無視。理不尽)

まあでも、他のバイトと顔合わせることがなかったし、時給もよく、外観や店内もけっこうやばかったし、
ハンター×ハンター読みながら餃子の定食(餃子は焼ける)も食えるし、でまあまあ良かったといえば良かった。



その店は、今はサラ地になっている。

僕が見ていた僕の記憶の中のラーメン屋さん、つまり社員(20代女性)の人は、
朝早くから出勤、夜は日付が変わるまで仕込み、週休1日、でも仕込みが終わってなかったら無し、
売り上げから予想される給料も恐らくそんなに良くない中で、10年もの間、未来の不透明な同じ日々を送っていたようであった。
翻って自身を鑑みるに、俺は学校に行かせてもらっていて将来もなんとなく見えてきてる中で、
客に怒られ、床に投げ捨てられたお金を拾うなんてのはどうでもよい気分になる(嫌だが)。
店長(60代女性)も苦労していたようで、基本的にはうまくやっていたが、のべつに衝突していた。

ある日、俺がシフトで出掛けたら店内から口論とヒステリックな叫び声が聞こえて、その社員の人が出て行って帰らなかった。
日を改めても社員の人は現れず、それから数日は俺も厨房に駆り出されて大変だった。
そのときラーメンも作れるようになった。全く難しくは無い。

その後、店を新しく建てかえるから今週で店を閉める、と言う旨の店長からの電話があった。
夏ごろまでには新装開店するという話であった。実情か建前か。
その店は偶然通学路上にあって跡地を毎日目にしているが、依然としてどうなる気配も無い。社員の人の行方は知らない。



そういったことがあって今に至ります。
僕はとやかく言える分際ではなかったし、どうにもすることができなかった。
何かすべきだったのだろうか、と尚も思うところである。いずれにせよ後味の悪い幕引きであった。
初めはこんなこと書くつもりは無くて、書いてるうちになんだかネット上の悪口みたいになってしまったけど、
基本店長もいい人で、料理も美味しく地元の常連もたくさんいる良い店でした。
最後に食べさせてもらった麻婆麺は印象深いものがあった。
コーヒーをつくる設備がほしいという話もちょろっと聞いたので、どうなるか経過を見ようと思う。でも戻りたくはないなあ。
まずラーメン屋にコーヒーっていうのがすごいところ。

で、今日近所のケエキ屋に応募の電話をして終日そわそわしていたのに折り返してこない。

 



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